☆土田佳武(オークランド/BC茨城)インタビュー☆ 目標のためには優しさも捨てる覚悟ができました

第2ラウンド、対キャンベラ第4戦(22年11月20日)より。ⒸSMP Images/ABL Media

2022年10月24日、日本で初めて開催されたオークランド・トゥアタラのトライアウトで唯一の合格者となった、土田佳武選手(BCリーグ・茨城アストロプラネッツ所属)。トゥアタラでは開幕戦からスタメンを勝ち取り、計20試合に出場した。プロ野球選手としては異色の、国立大学卒業。その経歴から話を聞いた。

 

「ラスト1年」のために

――土田選手の経歴を拝見すると、国立和歌山大学卒業というのは、プロ野球選手としてはかなり珍しい経歴ですね。どうして和歌山大を選択したのですか?

(山梨学院)高校時代、自分の代になるまではあまり試合に出ることができなかったんです。だから、もう「高校で野球は止めよう」と思っていました。でも自分の代になって、(左翼の)レギュラーとして甲子園にも出場(2016年夏=2回戦敗退)し、「大学でも野球を続けたい」気持ちが出てきました。ただ自分の実力的に、主要大学リーグに入れるようなレベルではなかったし、実際聞いていただいたところも枠が埋まっていました。そんななか、和歌山大で自主性や頭を使った野球を学べれば、野球の視野も広がるのではないか、そうすれば国立大出身でもまた上のレベルで野球ができるのではないかと思い、決めました。

――大学に進学した時点で、土田選手の将来の目標というか、人生計画はどんなものだったのでしょうか。

その時点では、社会人野球という選択肢を第一に考えつつ、念のため並行して就職活動もしておいたほうがいいかなという感じで、正直まだあまり明確なビジョンはなかったですね。

――大学での4年間は、自分で考えながら練習やトレーニングを進めていくスタイルだったのですか?

自分で考える部分もありましたが、チームに専属トレーナーの方が付いてくださっていましたので、その方にメニューを作っていただいたり、動きを見ていただいたりしながらトレーニングをしていました。

――そこから社会人でなく独立リーグ入りを決めたのは、なぜですか?

就職活動を進めるなかで、兵庫県の企業チームからお話をいただいてはいたんです。ところが、4年春のリーグ戦がコロナの影響で中止に。そこで自分の将来について考えていくうち、「ここまで来たら、上のレベルでプレーしたい」という思いが強くなりました。社会人で何年かプレーするより1、2年の勝負で自分に区切りを付けたいと思い、独立リーグを選びました。

――BCリーグの信濃グランセローズを経て、茨城アストロプラネッツに入団。そこで22年11月の、オークランド・トゥアタラのトライアウトを受けたきっかけは?

実は昨シーズンの途中、社会人のチームからお誘いをいただいていて、NPBのドラフトに掛からなかったらそちらに行こうかなと心が傾きかけていました。でもいざドラフトから漏れたとき、「ラスト1年、頑張ってNPBを目指したい」と思ったんです。「そのために自分には何が足りないのか」考えていたところ、(茨城の)色川GMに「ABLのトライアウトがあるよ」と教えていただきました。「様々な国の選手が集まる海外リーグで自分を磨けば、さらに上のレベルでプレーできる可能性が開けるのではないか」と参加を決めました。

――結果的にトゥアタラの日本トライアウト唯一の合格者となり、1週間程度でニュージーランドへ出発しました。向こうでの生活に慣れるまでは大変でしたか?

出発までは結構バタバタしましたが、向こうへ行ってからは、最初の1週間ぐらいで大体の生活リズムは掴めました。開幕から第2ラウンドまでの2週間はオーストラリア遠征で、飛行機移動が結構大変ではありましたが……。

――第1ラウンドのバンディッツ戦では3試合に先発出場しましたが、ノーヒットが続きました。あのときはどんな気持ちでしたか?

正直、自分のなかでメンタル的に来ていた部分もあったんです。でも、もともと「そんな簡単にはいかないだろうな」と思っていましたし、自分はここで何も失うものはない。常に前のめりに挑戦しようという気持ちで来ていたので、「最初はこんなもんだろうな」と思っていました。

――そこでABLの投手陣を打つためにどういうことを意識し、どんな練習をしようと考えましたか?

トゥアタラの広瀬(トレーナー)さんなどに、日本の投手とはまず、投げる球のスピードが違う。スピードが速く、そのうえ球が少し動く投手が多い中で、「タイミングのゲームに負けている」と指摘されました。すべてタイミングが遅かったり、差し込まれたりしていたんです。そこでタイミングを早く取り、自分の打つべきポイントで、しっかり自分のスイングができるよう心がけました。

――確かに日本人の投手に比べ、ABLの投手は後ろが極端に小さい投手とか、多種多彩なフォームの投手がいますよね。

日本の投手とは間が違うので、最初はそこにちょっと苦戦しました。

 

やってきたことが形になったホームラン

――トゥアタラのチーム内でも、レギュラー争いは常にありました。そこで土田選手は自分のどんな部分を発揮すれば生き残れると考えて、日々プレーしていましたか?

肩の強さには自信がありますから、捕って投げる、守備は最低限きっちりこなすこと。打撃に関しては、周りの選手は「飛ばす」能力に長けているタイプが多かったので、自分はそのなかで負けないよう、しっかりボールをコンタクトすることを考えていました。

ⒸSMP Images/ABL Media

――一番うれしかった、あるいは土田選手のABL生活のターニングポイントとなった一打を教えてください。

結果として一番うれしかったのは、ヒート戦(22年12月3日)でのホームランですかね。(11月17日の)キャバルリー戦で1本目のヒットが出て、少しずつタイミングもつかめてきて、自分がいろいろやってきたことが形になったのが、あのホームランでした。

――低めの変化球でしたね。うまく合わせられたという感じでしょうか?

真っすぐ、真っすぐでポンポンっとストライクを取られて。キレイな低めの球だったんですが、反応でいいゾーンにしっかり上げられたのがよかったと思います。それまでは、打球が上がらないことが多かったんです。バットを振り下ろしたところで当たって、低い当たりになることが多かった。バットが上がってくるタイミングでコンタクトし、なるべく良い角度に打球を上げていくことを意識していました。それができた一打でした。

――ABLでプレーしての土田選手の変化、「ここに来てよかったな」と思えたのは、どんなところですか?

自分が昨年NPBに行けなかった理由を考えると、技術的な問題はもちろん、マインドの面で優しさがアダになってしまうことが多かったと思うんです。でもABLでプレーして、アメリカのマイナーリーグにいる選手などを見ていると、絶対に引かないというか、常に自分を前面に出していかないと飲まれてしまうな、と感じました。今年NPBのドラフトに掛かるためには、常に攻める姿勢をもって、鬼になって張り切るしかないと自覚しました。

――ライバルを蹴落としても、というか。

それぐらいの気持ちじゃないと、もう(NPBに)上がれない年齢でもあると思います。

――本来、優しさは土田選手の長所であり、だから茨城でキャプテンを務めているんでしょうけれども……。

そうですね。いいところではあるんでしょうが、それがプレーに出てしまうのは非常にもったいない。グラウンドに立ったら優しさは捨てて、非情にならなければいけないと思います。自分の目標のためなら、何がなんでもやり通す。貪欲に、ガツガツ行く姿勢がこれまでの自分には足りていませんでした。ABLでプレーして、そういう強さがなければ他の選手のなかに埋もれてしまうなと強く感じました。

――トゥアタラの日本人選手以外で仲よくなった選手は誰ですか?

同じ外野でセンターを守っているマットと、レフトのジャックス。それからキャッチャーのロブと内野のグレッグとは寮の部屋をシェア(注:4人で4LDKの部屋をシェアする形。各自個室があり、リビングやキッチンは4人で使う)していたので、仲よくなりました。あとは、台湾から来たピッチャーのユー・チェンやウェイチュンも、ロッカーが隣で、よく話をしました。でもチームのみんな、いいヤツばかりで、結構話しかけてきてくれましたよ。

――仲よくなった選手たちから、何か刺激は受けましたか?

台湾人の選手もプロリーグに所属していますし、メジャーの3Aでプレーしている選手もいて、自分も負けていられないなと思いました。

――今年、これからの予定は?

今季も茨城でプレーする予定です。秋にはNPBのドラフトに掛かるよう、ABLで学んだことを生かして実践していきたいと思います。

Profile
つちだ・かむ●1998年生まれ、東京都出身。182cm92kg。右投右打。山梨学院高から和歌山大学を経て21年、BCリーグの信濃グランセローズに入団。22年は茨城アストロプラネッツでプレー。22年、BC茨城での成績は62試合に出場し、打率.283、本塁打9、打点49(本塁打、打点ともリーグ1位)。ABLでは20試合に出場し、打率.197、本塁打1、打点5の成績に終わった。

あわせて読みたい