迫勇飛投手(キャンベラ)インタビュー☆「今年が“ラストチャンス”と思って、シーズン後もトレーニングしまくります」

photo: Baseball Australia

ABLキャンベラでの2シーズン目となる23/24年はシーズン中盤、リリーフから先発に転向。好投を続け、チームの先発陣としてはNO.1の防御率を残しました。その活躍ぶりは、キャンベラの地元紙でも大きくインタビュー記事が掲載されたほど。「25歳の今年はラスト・チャンス」という迫投手に、この2年の変化と成長を聞きました。

 

悩み抜いた末、アメリカへ

――昨季はABL1年目のシーズン終了後、米国フロンティア・リーグ(独立リーグ)のニュージャージー・ジャッカルズでプレーしましたね。ニュージャージー入団の経緯から教えてください。

ABLの22/23シーズン最終戦(対シドニー)のときに、ニュージャージーの監督からオファーのメッセージをいただきました。当時はまだ(社会人野球の)カナフレックスコーポレーションに在籍中で、会社にはお世話になっていましたし、シーズンが始まったら副キャプテンに就任することも決まっていたので、かなり悩みました。すぐカナフレックスのほうにも相談し、監督さんにはいい意味で「少し考えてほしい」と言っていただいたうえで、ABLのシーズンが終わったあとも、1週間以上悩みましたね。何人もの方に相談して、また悩んで、「アメリカでチャレンジしたほうが、今自分がやりたいこと、目指しているものに近づくんじゃないか」と考え、最終的に腹をくくりました。カナフレックスには「お世話になって本当に申し訳ないのですが、アメリカでチャレンジしたいです」と伝え、退社を決めました。

――実際、渡米したのはいつでしたか?

ビザがなかなか取れず、結局フロンティア・リーグのシーズンが始まって1カ月ほど経った6月の合流になりました。それまではカナフレックスのグラウンドや、母校の履正社(医療スポーツ専門学校)のグラウンドを使って練習させていただきました。寝泊まりもカナフレックスの先輩たちが家に泊めてくださって、本当に感謝しています。

――ニュージャージーでは、ABLパースに昨季、今季と所属した塩田裕一投手とチームメイトだったんですよね?

渡米の飛行機から同じで、向こうにいた3カ月はほぼ24時間、ずっと一緒にいたと思います(笑)。別々だったのは、一日のうちの分単位。「おはよう」で塩田さんがいますし、「お休み」のときも塩田さん(笑)。ムッチャ楽しかったですけどね(笑)。

――(笑)。野球の面では、ABLとの違いはありましたか?

ABLでは週末の4試合しか試合がありませんでしたが、フロンティア・リーグでは週6日試合があって、休みは1日だけ。塩田さんも僕も、リリーフ陣は全員ほぼ毎日練習があって、キャッチボールもしていました。僕は多くて3連投もありました。なかなかのハードスケジュールで、初めて下半身の張りを感じましたね。腰とかお尻とかが張って、足が動かなくなるほど。ケガじゃなくてそんなふうに感じるのはトレーニング不足、ケア不足なんだなと痛感しました。

――そこはもう、自力でなんとかするしかない環境なんですか?

トレーナーさんがいない時期もありましたし、基本的には各自でケアしていました。でも僕も塩田さんも、基本的にケガなくシーズンを終えることができたのは良かったでsy。

――アメリカの下部リーグは、なんせ移動が大変と聞きますが……。

移動は本当に大変でした。基本バス移動なんですが、一番遠いカナダのチームの球場まで、15時間半ほど掛かるんです。そのときに僕、なぜかバスの席がなくて、バスの後部にあるトイレの前の床に寝転がって往復しました(笑)。みんなお酒を飲んでよくトイレに行くので、踏みつぶされたりドアをバーンっとぶつけられたり。あれはちょっと、心を病む経験でした(笑)。これまでの人生で一番しんどい経験だったかもしれないです。

――どんなところでも生き抜ける自信が付きそうな……(苦笑)。

まあ、そうですね(笑)。でも海外でずっと野球をしている選手は、たぶんこんなことにも慣れているんだろうな、これが特別ってわけではないんだろうなとは思いました。

――それでも22試合(37.1回)に登板し、1勝1セーブ、奪三振38、防御率3.86の成績で、シーズン最後まで投げ通しましたね。

ニュージャージーはリーグの中でも、ダントツにリリースの多いチームだったんです。大体シーズンに20人くらいリリースされるところ、ウチは80人から90人。結果が出ないとあっという間にリリースされ、代わりに良い選手が次々やってきます。塩田さんとは毎晩のように、「次は俺ら(がリリースされるの)かな」と話していました。でも、なんとかお互い頑張ろうって言い合って。結果の悪い日もありましたけれども、塩田さんがいてくれたから、最後まで頑張れたと思います。

――アメリカに行く前に、ABLで経験しておいてよかったなと思えた点はありましたか?

たくさんありました。(英語での)コミュニケーションはもちろんのこと、練習形態とかブルペンの仕組みとか。「次、行くよ」「急いで用意して」といったハンドサインも、ABLと同じだったので、分からなくて困ることがありませんでした。

 

エースを目指し、ゼロを積み重ねる

――23/24シーズンについて、キャンベラからのオファーはいつ、あったのですか?

22/23シーズンが終わって、チームのパーティーのようなものがあったときから、「来季も来てくれ」とは言われていました。ただアメリカのシーズンが終わった時点では、もう少しレベルの高いメキシコのリーグに行きたい気持ちがあったし、実際知人を通してそちらと話をしていたので、(キャンベラには)少し待ってもらっていたんです。ところがメキシコのチームに「来週来られる?」と聞かれて、僕が野球関連の用事があったために「来週は行けない」「少し連絡を待ってくれ」と言ったら、そのまま入団も立ち消えになってしまって……(苦笑)。いまだに理由は分からないんですよ。でもその後もキャンベラからはオファーをいただいたため、ありがたくサインをさせてもらいました。

――ABLのシーズン2年目ということで、昨季とは何か意識の違いはありましたか?

昨季は後半からのハーフシーズンで、リリーフのみでの登板でした。今季は、自分としてはシーズン頭から、先発として頑張りたいなとは思っていたんです。ただ、自分から打診はしませんでした。チームの方針や監督の考えに、選手は従うだけだと僕は考えています。だから「リリーフ」という働き場所を与えられた以上、そこで全力を出し、チームに貢献する。淡々と、ひたすら0点、0点……と頑張って抑えていけば、どこかのタイミングで先発になれるかなと思いながら、投げていましたね。リリーフのときはチームに貢献することに加えて「先発」という目標に向かって、そして「先発」を任されるようになってからは、「このチームのエース的存在にならないと、まだまだ上には行けない」と思いながら、毎イニング0点を積み重ねること、奪三振数を増やすことを意識して投げました。

――先発に回ることを告げられたのは、いつですか?

第5ラウンド(対アデレード)前の火曜日の練習のとき、キース監督とコーチが来て「土曜日、先発で行こうか」と言われました。そうしたら、(先発予定の)前日の金曜日に、急遽二番手でリリーフに出ることになりまして……(笑)。

――それはビックリしたでしょう(笑)。

試合前から翌日に備えて徳山(壮磨=横浜DeNA)君に教わったメニューなどを組み合わせて調整し、試合中はずっとベンチにいたんです。4回表、ベンチが動き始めて「ブルペンから呼んで来い」みたいな会話を隣でしていたので、「次、誰やろな」と思っていたら、「あ、お前や」(笑)。「えっ、俺?」って感じでしたね。そのときスパイクも履いていなかったし、パーカーだけでユニフォームも着ていませんでしたから。超特急で準備して、「いや、マジでごめん(So sorry)」って、初めて外国人に謝られました(笑)。

写真左から「大好きな」濱矢廣大投手、「師匠」徳山壮磨投手(横浜DeNA)、ホストファミリーのジョシュさん、ジョシュさんのお母さん・ダイアンさん、バッテリーも組んだ東妻純平選手(横浜DeNA)、迫投手

――マジでごめん、ですね(笑)。

でもそのとき、メッチャ嬉しかったんです。1勝1敗で迎えた3戦目。0対5から3点差まで追い上げて、それ以上点差を広げられたくないピンチの場面。そこで選んでもらったということは、信頼してもらえているんだなとも感じましたし、その期待に応えてこそナンボやなと思いました。ましてや自分はキャンベラのエースになりたいと思っているわけですから、先発だろうがリリーフだろうが関係なく、「お前行け」と言われた場面で結果を出すのが、良いピッチャー。あの場面で行けと言われて、ビックリはしましたけれども、驚き以上に、そこで抜擢してもらった嬉しさのほうが勝っていました。

――その翌週、第6ラウンドのシドニー戦(12月20日)では先発し、7イニングを2安打1失点で勝利投手に。第7ラウンドのパース戦でも6回を2安打無失点に抑えるなど、先発としてシーズン6試合(30イニング)に登板、2勝2敗、防御率1.80の好成績を残しました。迫投手の中で、何が良くなったのでしょうか。

投げ方とか、特に変わったことはないんですよ。ただ1カ月ほど、ずっと徳山君と一緒にいて、移動の道中も含め、ずっと野球の話をさせてもらったんです。アップやブルペンでの調整の仕方から、「こういうケースでは、こうやってバッターを攻めたほうがいいんじゃないか」といった配球面に至るまで、すべて教わりました。これまで僕、1カ月に1回、必ず悪い日が来るというジンクスがあったんです。「すごく辛いし、嫌やな」とは思っていたんですが、「これはどうやっても訪れるものなんやろうな」と諦めていました。でも徳山君に肩甲骨のマッサージとか、敏感な足の裏に対するケアの仕方とか細かく教えてもらってから、多少体の調子が良くなくても、登板前にきちんとケアや準備をしておけば、そこまで崩れずに済むようになったんです。そのおかげで、今までよりも全体的に良いパフォーマンスを出せるようになったのだと思います。

――調子の波をなるべくなくす。悪いなりにピッチングを作ることが、良いピッチャーの条件ですよね。

そうなんです。だからもう、本当に「徳山様」「師匠」という感じです。2カ月半の間に、自分は野球の面で、考え方を大きく改めさせてもらいました。だから12月25日で徳山君が先に帰国してしまったときはシンプルに寂しかっただけでなく、「もっと長く一緒にいて野球の勉強をさせてもらいたかったな」と思いました。それこそ1年間、ずっと真横に付きっ切りで徳山君のトレーニング方法や投球理論を学びたかったです。

 

「野球を教えてもらえませんか?」

――ABLに来たこの2年間で迫投手自身、自分が成長できている実感はありますか?

メチャクチャあります。社会人時代も1、2年で自分が思っていた以上に急成長できたんですが、海外に来て自分が日々進化し続けていることをますます実感できました。周囲のアドバイスを聞いて、実際試してみて、「あ、こうか、こうか」と自分なりのものに作り替えていく。するとだんだん結果が付いてきて、時に苦しいことがあっても、それを超えられるくらいの良い結果につながっていく。投球そのものより、考え方の面で成長できたのではないかと思います。

――具体的には、どんな部分の考え方ですか?

一つは、先ほどお話した準備の部分ですね。それまで準備といえばある程度体が動けるようにして準備運動……要は人並みのアップをしておけば投げられる、という考え方でした。それが徳山君に細部にわたって教わったことで、準備の仕方次第でパフォーマンスまで変わることに気が付きました。それからマウンドで投げているときの割り切り方。「さっきの球をここに投げたから、ピッチトンネルのことを考えると次はここにこういう球を投げたほうが、打ち取れる確率が上がるだろうな」といったふうに、配球についても深く考えられるようになりました。

――「ピッチトンネル」とは複数の球種を途中(打者から9mほどの位置といわれる)まで同じ軌道に通すことで、打者の対応を困難にすることですね。

「ピッチトンネル」については、パースに来た早川(隆久投手=東北楽天)さんに教えていただきました。僕、「この人、ホンマにすごいな」と思った人には誰かれなしに「すみません、野球を教えてもらえませんか」と言って自分から教わりに行くので……。

――それはポジティブで、ナイスな性格ですね!

メルボルンにいたグレッグ(・バード選手=元NYヤンキースほか)にも、「グレッグ~!」と、こちらから話しかけに行きました。昨季、フロンティア・リーグで一緒だったんですよ。「俺、ニュージャージーで投げとったやんか」って話しかけたら、最初は「へ~。そうなん?」程度の反応だったんですが、「こんな変なフォームのピッチャー、覚えてない?」と言うと「あ~、あれお前か!」みたいな感じで、そこから仲良くなって(笑)。最終戦のとき、「もうちょっとレベルアップするには、どうしたらいいかなあ」と聞いたら、とても優しく、いろいろ答えてもらえました。

――いいですねえ。相手が優しいのはもちろんですが、自ら行動を起こしているのが素晴らしいと思います。

僕、「あ、どうしよう、しゃべりに行ったらあかんかな?」とかあまり思わないタイプなんで、体が勝手に動いちゃうんです(笑)。第三者が見たら、「コイツ結構ヤバいな」と思われてるんちゃうかなというぐらい、いろんな人に話に行きます。

――いやいや、それは立派な長所ですよ。さて2年目のABLも終わり、これからのことはどう考えていますか?

ニュージャージーに戻るかどうかはまだ分かりませんが、アメリカに戻ってプレーすることになると思います。NPBを目指すにしても、25歳という僕の年齢は、ラストチャンスだと思っています。可能性としてないこともないけれども、やはり“オールドルーキー”という分類になりますしね。当然即戦力でなければいけないので、NPBからそう見てもらえるような、実際即戦力として戦えるような力と結果を今年は出していきたいです。

――しばらくオーストラリアに残るとお聞きしましたが、こちらでオフを取るということですか?

いえ、暖かい気候でボールを投げる環境も整っているので、しっかりトレーニングを続けます。もちろん日本に帰って家族や友達に会いたいんですが、まだその時期じゃないという気持ちがあって。自分の中で今年は勝負の年ですし、せっかく暖かい、良い環境にいられるのだから、ゆっくりするより頑張って、トレーニングしまくろうと思っています。

Profile
さこ・ゆうひ●1999年8月7日生まれ、兵庫県出身。180cm82kg。右投右打。東洋大姫路高-履正社医療スポーツ専門学校-カナフレックスコーポレーションーキャンベラ・キャバルリーーニュージャージー・ジャッカルズーキャンベラ・キャバルリー。ABL2季目となる23/24シーズンは11試合(36.2イニング)に登板し、2勝2敗、防御率2.12の成績を残した。

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