☆塩田裕一投手(パース)インタビュー☆150kmの力勝負より、「いかに“自分の色”を出して打ち取るか」を考えた
一度は仕事としての野球を諦め、就職活動を経て一般企業に入社した青年が、野球用具だけをもち海を渡った異国のプロ野球リーグで、頂上決戦の舞台へ――。そんなシンデレラ・ストーリーが2022/23シーズンのABLで実現した。パース・ヒートで、勝ちパターンの中継ぎとして貢献した塩田裕一投手。ABL日本人選手初のファイナル登板はならなかったが、塩田投手自身も確かな手ごたえを感じ、今季新たな舞台に挑む。
片道航空券と野球用具だけの渡豪
――塩田投手は学生時代からプロ野球や社会人野球など、「野球を仕事にする」ことは考えていたのでしょうか。
漠然と「プロ野球選手になりたいな」とは思っていました。ただ、僕は高校時代も全くプロの目に留まらない存在で、大学も一般受験で入学しています。大学1、2年のとき首都大学リーグ戦(二部)に主戦投手として投げ、公式戦で10勝ほどして、監督から「スカウトが見に来ている」という話を聞きました。それが初めて、 “上の世界”を現実的に見始めたタイミング。そこで「もう少し頑張らなければ」と自分を追い詰めすぎて、3年時にイップスのような状態になりました。ストライクは入らず、球速も130km程度。4年生になっても、そのままベンチ外です。社会人野球に進む道も閉ざされ、一般企業への就職活動を始めました。
――新卒で一度、就職なさったんですね。
「このまま大学生活が終わるのは嫌だなあ」と思い、就職活動に絞って頑張り、第一希望だったロッテに入社しました。本社の営業採用で、大手スーパーの本社のバイヤーさんを相手に商談する仕事でした。
――そこから一転、BCリーグに進んだのは?
第一志望の会社で社会人生活を始め、仕事内容も決して嫌ではありませんでした。ただ、一方で野球に未練を残していた自分が、すごく嫌でした。では人生というスパンで考えたとき、自分がシンプルに人生で一番成し遂げたいことは何か。それなら「ロッテの営業で一番になるより、プロ野球選手になりたいな」と思いました。そこで仕事前後の早朝と夜、一人で練習して、BCリーグのトライアウトを受けよう、と決意しました。イップスの原因は精神的なものでなく技術不足によるものだと考え、練習のなかで、自分のフォームも突き詰めていきました。その結果、BCのトライアウトで大学4年間の最速だった144kmを上回る146kmを出すことができ、ドラフトで福井球団に拾っていただきました。
――そのときには、ABLで見せた今のフォームが出来上がっていたのですか?
いえ、まだですね。最初はBCリーグでも自分の力が全く通用せず、オープン戦でも1イニング10失点など散々でした。でも会社を辞めてまで来た場所で、そのまま終わりたくなかった。福沢卓宏監督(当時)に、「一から投球フォームを教えてください」とお願いし、反復練習していきました。そのうち球速も上がって150kmまで出るようになり、高橋康二(2019/20年ABLオークランド・トゥアタラに所属)が9回を投げる前の8回をセットアッパーという形で任せてもらいました。おかげさまで非常に充実した成績を残すことができ、考え方もメンタル面も成長できたと思います。ただ、そうして福井時代に作ったものを、BC3年目、信濃に移った年の最後にメチャメチャ調子を崩し、壊してしまいまして。パースに行って、もう一度作り直した感じです。
――そのパース入りは、どんなきっかけがあったのですか?
BCリーグで3年投げて、結局NPBにはかからなかった。早生まれで26歳になる年でした。ドラフトで指名されるには賞味期限切れの年齢だと思いました。信濃の最後、最低限の成績は残すことができましたが、ボールはよくなかった。「もう限界かな、やり切ったかな」と思う気持ちもありました。とすれば、また就職を考えなければならない。でも10月、11月から就職活動をして年明けの1月に入社するのも、半年ぐらい海外へ行って語学のスキルを付けて春から就職活動をするのも、新卒でない自分にとってはあまり変わらないなと思いました。ちょうど身近にいた高橋康二からもオーストラリアの野球についてはいろいろ聞いていて、数年前から漠然と興味は持っていましたから、まずは野球をしながら生活できる可能性がある「ステート・リーグ」に入ってみよう、と。もちろんABLで投げることは理想ではありましたが、「叶えばいいなあ」くらいの一番上の目標として、片道の航空券と野球用具だけ持ってパースに行きました。
――「ステート・リーグ」のことをよくご存じでしたね。そしてブリスベンやゴールドコースト、シドニーではなくパースを選んだところも珍しいですね。
知人がパースのステート・リーグでプレーした話を聞いていたんです。どういうレベルの、どんな野球か、詳細は知りませんでした。「野球をしに行く」というより「生活をするために野球を使う」スタンスのほうが強かったですね。ステート・リーグに入れば、ホームステイなどの滞在先も安く見つかるでしょうし、アルバイトも紹介してもらえるかもしれない。パースには、その知人の知り合いの日本人がいるから「何かあったら話を聞いてもらえるよ」と言われて、「じゃあパースにします」と直感で選びました。その方にはパース滞在中、かなり助けていただきました。
――チームは決まっていたんですか?
渡豪前に話をある程度つけていったはずだったんです。ところが(22年11月初旬)いざ向こうに行ってみたら、全く話が通っていなかった。たまたまそのチームと、知人に紹介された日本人の方が以前所属していたワナルー・ジャイアンツというチームの試合があるので、「直談判したら、何か話が進むかもしれない」と連れて行ってもらいました。そのとき当初入団する予定だったチームではなく、ワナルーのほうの関係者が「お前、どれぐらい投げられるんだ?」と聞いてきたので、「最速93マイル(約150km)くらいかな」と答えると、「ウソだろう」「ブルペンで投げてみろ」という話になりまして(笑)。キャッチボールをして、いきなりブルペンに入ったんです。そこで90マイル(約145km)を出したら、試合中のワナルーの監督まで見に来て、「入るところが決まっていないなら、うちに来い」。それで「滞在先を探すのを助けてくれたら、入りますよ」と言ったところ、「それくらい任せとけ」と、すぐホームステイ先を確保してもらいました。
――それだけでももう、すごい経験です。そういうチャレンジをする人には、必ず誰かが手を差し伸べてくれるんですね。
自分でアクションを起こしたことが、いいほうにつながったと思います。受け身でばかり動いていたら、誰も助けてくれなかったのではないかと。一応センター試験受験のとき英語を勉強していたのも、ここに来て生きてくれました。単語をつなげてでも、自分の思いを直接伝えることができたので、すぐ次々物事を決めてもらえました。
ベンチにナゾのアジア人?
――そのとき、「ここで投げていて成績を出せば、パース・ヒートに呼ばれるよ」という話も聞いていたのですか?
「自分としてはパース・ヒートで投げてみたい」という希望は伝えておきました。ワナルーのチームメイトで、元オーストラリア代表のトム・ベイリーに、「もう(投手陣は)16人くらい選手契約しているから、かなり厳しいよ」とは言われましたが。特にヒートはインポート組が多いんですよ。
――そんな状況から約1カ月後のラウンド5には、パース・ヒートのマウンドに上がることになりました。その経緯は?
日本にいたころから、僕の武器はフォークボールでした。海外ではフォークをあまり見慣れていないこともあって、結構効果を発揮していたのが、どうやらヒートの監督に伝わったようです。ヒートも中継ぎの枚数はいても、そこまで安定していなかったんですね。それで12月8日の木曜に「練習に参加しないか」と呼ばれてヒートのブルペンに入ったら、その日の僕は絶好調。「お前、面白いな。また来週の火曜も練習に来てくれ」と監督たちに言われました。「ああ、これでなんとか次につながったな」と思って、家でのんびりしていた9日金曜日のお昼ごろ、ヒートから突然連絡が来たんです。「裕一、これにすぐサインしろ」と言われた書類をプリントアウトしてサインし、写真に撮って送り返して、契約完了(笑)。「よし裕一、今日5時に球場へ来い」。で、球場に行くと、すでに選手登録されていて、そのままベンチ入りです。
――とんでもないスピード感ですね。
自己紹介する間もなく、チームメイトみんな、誰も僕のことを知らないんですよ。明らかにナゾのアジア人が一人交じってる(笑)。その日は結局登板がありませんでしたが、翌土曜、途中から急に「行け」と言われて、「ここが勝負だな」と思ってマウンドに上がりました。その試合(12月10日、シドニー戦)で2.1回を無失点に抑えて、デビューしました。そのときも、内野を守っている選手さえ、まだ僕の名前を知らなかったと思います。キャッチャーも「で、お前、何投げるんだ?」って感じでしたから。そこから気が付いたら、チャンピオンシリーズまで突っ走っていました。
――その、「コイツ誰?」状態は、マウンドでの結果で解消していった感じですか?
自分から必死にアクションを取っていきました。ヒートに合流した翌週のアデレード遠征がクリスマス前ということで、チーム全員「コスプレで集合」とのこと。まだ全くチームメイトになじんでいなかったので、ちょっと気合を入れてコスプレしていきました。それで「裕一、お前、面白いな」「一緒に写真撮ってくれよ」と、話のきっかけができました。あとで、「あそこまでやらなくてよかったんだよ」と言われましたが(笑)。
――そこからはブルペンでも、ほかの投手陣と会話するようになりましたか?
投手陣でアップを始める際、毎回その日のリーダーを決めるんです。毎回のように「裕一、やれ」と言われました。ロッカールームでも「裕一、カラオケして」とか「相撲のマネして」とか「剣道見せて」とか。気が付いたら僕、チーム内でそんなキャラになっていましたね(笑)。
――さてピッチングのほうでは、ABLで最後まで戦うために塩田投手のどんな特長を前面に出していけばいいと思いましたか?
ABLのインポートの選手は、打者ならスイングスピード、ボールを飛ばす力。差し込まれても、逆方向にホームランを打ってしまう。投手の球速も右なら常時150kmは優に超えていて、共に僕が見たことのないレベルでした。ここでは、僕が思い切り投げる150kmは価値がない。じゃあ自分に何ができるかなと考えたとき、「自分の持っている球種で、どれだけストライクゾーンの中で勝負できるかだな」と思いました。ヒートでも僕のフォークボールは監督、コーチはじめ、みんなが認めてくれる球。三振を取れる球が一つでもあると、やはり武器になりますね。だから、とにかくテンポよく、初球からストライクゾーンで勝負。初球にホームランを打たれたら、それはそれでOKというくらいの割り切りでした。そしてストライクゾーンの中で、ボールを動かしていく。ヒットを打たれても、気にしませんでした。
――その考えは、最後まで貫けましたか?
ストライクゾーンで勝負をしていくと、こちらのリズムになってきます。ストレートの球速が特別速くなくても、「追い込まれたらフォークがある」と打者が意識してくれれば、ストレートが生きてくる。12月の4試合は、それで無失点に抑え続けたんです。1月に入って、ジーロング戦(1月8日)で初めてホームランを打たれました。少し欲を出して、「ストレートでファウルを打たせてやろう」と日本人打者相手と同じような感覚で勝負したら、たちまちスタンドに持っていかれた。「あ、やっぱりブレちゃダメだな」と反省しましたね。やはり、今のヒートでできる“自分らしさ”を失ってはいけない。球速を出すよりも、いかに質のいいストレートをストライクゾーンの中に投げ込むか。それだけを日々考え、毎日メモを欠かさず、動画を見て振り返り、ブラッシュアップしていきました。
――「質のいい真っすぐ」を投げるにあたって、意識したことはなんですか?
力まないで投げること。体を開かずギリギリまで粘り、リリースの瞬間だけ力を入れることが1点。あとは打者に、「打ちやすそうだな」と思ってもらうことを大事にしました。例えば初球、少し遅めのストレートを簡単に真ん中に投げてみる。「あ、ストレートはこんなもんか」と思わせておいて、次にまた同じ球速でカットボールを投げるとか。要は「打ちやすいんじゃないか」と思ったところから、考えさせる。いかに気持ちよくスイングさせないかを、常に意識していました。相手が怖がるようなものを持っていないので、むしろ「ラクに打てる」と思って打ちに来てもらったほうがこっちもラクだな、と思考そのものを変えたんです。
周囲の人に恵まれて次のステージへ
――ABLはどうしても「力と力の勝負」というイメージがありますが、そうじゃなくても勝負できるということですね。プレーオフでのピッチングはどうでしたか?
ブリスベンとのセミファイナルは初戦を接戦で落とし、2戦目に負けたらもう終わり、という状況。その2戦目の先発が、22/23シーズンに奪三振王を獲ったガナー・カインズという左投手で、いつもだいたい彼のあとは僕、と決まっていました。5回を終わって7対3とリードはしていましたが、いかんせんブリスベンのホームで、ヒートが引き離してもすぐ追いついてくるような展開。中継ぎ陣としては、何点もらっても正直不安ではありました。そこに僕が先陣を切っていったわけで、メッチャ緊張しましたけれども、「なんとか自分がここまでやってきたこと、自分がここでできることだけをやろう」と落ち着いて勝負し、ブリスベンに行きかけた流れを切ることができました。
――その試合後、陽岱鋼選手(ブリスベン)に声を掛けてもらったそうですね。
「お前の気持ちのあるピッチングは大きな武器になると思うから、まずはその気持ちを忘れずに投げていったほうがいいよ」という話をしていただきました。僕らの世代にとっては、スーパースター。そんな方と対戦(結果はキャッチャーゴロ)できたのも嬉しかったですし、そう言っていただけて、自信にもなりました。
――ファイナルでも塩田投手の投げるところを見たかったですが、残念ながら登板はありませんでした。
僕は一応、勝ちパターンの中継ぎだったので、負け試合だと登板がないんです。ヒートは8、9回に投げる投手を3人、ファイナルで固定しました。僕は「裕一、タイブレークを想定して、ずっと準備しておいてくれ」と言われて、序盤で行くかもしれないし、そこで登板がなければ今度は後ろのカバーに入る、一番流動的な立ち位置に置かれたんです。結果としてファイナルで投げられなかったのは悔しいですが、そこまでチームに貢献できたということは、嬉しかったです。
――そうやって緊迫した場面で使いたいと思うだけの信頼を得ていたわけですよね。今回オーストラリア、ABLに行ってよかったなと思えたことはなんでしたか?
周囲の人たちに恵まれたことですね。僕が打たれて落ち込んでいたとき、仲良くしていた抑えのコナー・ヒギンスが、メッセージを送ってくれたんです。「裕一、あなたはもうこのチームに欠かせないピッチャーです」「今日は打たれてしまったけど、これからも同じようなピッチングを続けてください」と、わざわざ日本語に翻訳して送ってくれました。
ほかにはWBCオーストラリア代表で日本戦に先発した、ワーウィック・ソーポルド。ファイナルでアデレードに負けた夜、みんなで食事に出かけたんですよ。そのとき、ワーウィックが5分くらいずーっと下を向いてスマホをいじっていたんです。そしてパッと顔を上げると「裕一」と言って、画面を見せてくれました。そこにはメッチャ長文で、僕に対する感謝の気持ちが綴られていたんです。「ずっと僕のキャッチボール・パートナーをしてくれてありがとう」「裕一と一緒に野球ができたことはかけがえのない経験だったし、裕一のキャリアがより良いものになることを心から祈っています」と、これも翻訳ソフトを使って日本語で。ABLで野球ができたのは、こうして周りの人に恵まれたからだったんだなと改めて感じました。
――5月からは、米国フロンティアリーグのニュージャージー・ジャッカルズでプレーすることが決まりましたね。塩田投手自身もSNSで売り込みをかけていましたが、その成果があったということ?
これも自分で動いたことをきっかけに、ヒートのチームメイトが拡散、協力してくれたり、以前所属していたチームに連絡してくれたりしたんです。福井で一緒だったティルマン・ピューが今季キャンベラにいて、「裕一、(米国独立リーグのチームに)紹介できるよ」と連絡をくれました。そこでジャッカルズの監督が僕の動画を見てくれて、「ぜひうちに来てほしい」と決まりました。
――今後はどんなところを目指していきますか?
やはり高いレベル……それこそMLBとかNPBとか、一番上のレベルで野球をすることが今の目標です。そのためにも球速とフィジカルは上げなくてはいけないと思います。自分のいいところ、ABLでも通用したところは伸ばしつつ、自分のなかにより一層の伸びしろをもって、上を目指していきたいです。
Profile しおた・ゆういち●1997年生まれ、東京都出身。185cm91kg。右投右打。都立日野高-獨協大-西多摩倶楽部-BC福井ワイルドラプターズ-信濃グランセローズ-ワナルー・ジャイアンツ-パース・ヒート-ワナルー・ジャイアンツ。22年は信濃で24試合(24回)に登板、0勝1敗4セーブ、奪三振13、防御率2.63。ABL22/23シーズンは10試合(12. 1回)に登板し1勝0敗、奪三振12、防御率2.92。プレーオフ(セミファイナル)で1試合(1回)を無安打無失点、奪三振1に抑えた。