☆陽岱鋼選手(ブリスベン)インタビュー☆ 海外で追い求めるEnjoy baseballと未来の自分

ⒸSMP Images/ABL Media

2021年のシーズン終了と共に、巨人と陽岱鋼選手の5年契約も満了を迎えた。巨人から陽選手には、契約更新のオファーが出された。だが陽選手は熟慮の末、自ら退団を申し入れ、自由契約となった。翌22年、陽選手が向かった先はアメリカ・独立リーグ。次いで10月18日、「NPB、台湾球界のスーパースター・陽岱鋼がABLバンディッツ入団!」とのビッグニュースが、飛び込んできたのだった。なぜ陽選手はNPBでの17年目のシーズンではなく、海外での再スタートを望んだのか。その思いに焦点を置いて、話を聞いた。

 

今、改めて野球が楽しい

――なぜ今、オーストラリアでプレーをしているのか。その理由と、そこにある気持ちから聞かせてください。

まずはNPBで16年も野球をさせていただいて、感謝の気持ちしかありません。また、自分のわがままを聞いて自由契約にしてくれた巨人にも、本当に感謝しています。ただ僕には、MLBをはじめ一度海外で野球をやってみたいという気持ちが、昔からありました。なぜかというと日本にいたころ、外国人選手たちがプレーしているとき、常に「エンジョイ・ベースボール」という感じだったんですね。日本と海外の野球、何が違うんだろうな、なんでみんなこんなふうにプラス思考でプレーしているんだろう、と思いました。それがこの決断に、非常に大きな影響を与えています。

プロは結果がすべてですから、楽しむ中にも結果を残すことが大前提。なのに野球に対する、自分のこの気持ちはなんなんだろうと思いました。そもそも野球をして楽しかったから、それがきっかけで野球を始めたわけです。しかし高校、プロとレベルが上がってくれば、やはり結果を出さなければならない。当たり前のことなんだけれども、その中で(NPBでの)最後のころには、野球を始めたころに抱いていた大切な気持ちを失ってしまったような気がしました。

――最後は、結果を求め過ぎたということでしょうか。野球をやっていて辛かったですか? 

もちろん、結果を出さなきゃいけないんです。ましてや自分はFAで巨人に移籍したわけですから。だからこそ「結果を残さなければいけない」と、自分にもプレッシャーを掛け続けていました。だけど結果ばかりを求めたら、自分のプレーができなくなったという感覚が自分の中にあったんです。そのころはずっと、「ちょっと違うな」と思っていた、そんなとき、通訳を通して話した外国人選手の考え方を思い出し、外国へ行ってみたいと思いました。

――まずは2022年春から、アメリカ・独立リーグのレイクカントリー・ドッグハウンズでプレーしました。アメリカでは楽しかった?

プレーしているときは、やはり楽しかったですよ。でも、覚えなきゃいけないことがたくさんありました。まず生活のこと。そこはゼロから始めたので、最初は毎日、大変でした。そのぶん、本当に充実しているなあと思えましたが。

――そのときはある意味、初心に帰れましたか?

それはありましたね。日本で16年やって来たことを終えて、ゼロからまた新しくやり直す。16年の歴史があって、実際に結果も出ていたものを、手放すことができる人とできない人がいると思うんです。

だけど、そうはいっても結局これも過去のこと。もう戻れない時間なんです。僕は35歳ですが、この先40代、50代と生きていく長い人生を思ったら、まだ若い。前を見なければいけないと思いました。だから、自分の体がまだ十分動くうちに、日本国外に出たかったんですよ。

(巨人からのオファーがありながら、退団を選択した)僕の考え方が理解できないという選手は多いと思います。でも僕は自分の中で柔軟に、将来の自分を見据え、後悔したくないと思いました。どんなリーグであれ、海外に出て野球をやるなんて、みんなが経験できることではない。もちろん、僕は今も上を目指して野球をしています。実際、ここまで1年に満たなくても、日本と海外の野球の違いがよく分かりましたし、かつてのチームメイトたちが話してくれていたことが、やっと本当に理解できたなと思っています。

――外国人選手たちに聞いてきた話ですね。

バンディッツの野手の中では最年長。いい兄貴分となっている陽選手

外国人選手もそうだし、山口俊(前巨人)君にもいろいろ話を聞きました。彼もメジャーに挑戦して、1シーズンちょっとではありましたけど、やはりいい経験をしたと帰国後、話してくれました。僕も元々海外でやってみたい気持ちがあったので、その話を聞いて、さらに後押しされましたね。

 

ハングリー精神を思い出させてくれたアメリカでの経験

――アメリカで1シーズンプレーして、そのオフの時期、「今度はオーストラリアに行こう」と思ったのはなぜですか?

アメリカにいたとき、チームメイトからオーストラリアの話を聞きました。そこでプレーをしてみたい、ABLを見てみたいという気持ちが、沸々と湧いてきました。実際ここでプレーして、アメリカとはまた違った経験をさせてもらったので、それも自分の中で財産になったなと思います。

――1年中体を動かしていて、疲労など大変なことはありませんか?

大変なときは大変でしたよ。特にアメリカでは、移動もほぼ全てがバスでしたしね。そこは日本では経験できないことでした。アメリカで一緒にプレーしている選手たちを見て、こんな辛く過酷な移動をして、そのまま試合でプレーできるのは、ある意味プロフェッショナルだなと思いました。何一つ文句を言わずに、ちゃんとプレーする。そのハングリー精神が周りの選手たちから伝わって来て、僕も同じ気持ちになっていました。彼らと一緒にいて、本当にいい勉強をさせてもらいました。

――実際、ABLの選手のレベルや質はどうですか? 例えばNPBの選手や、アメリカの選手たちと比べて。

どの選手も、みな良いものを持っていると思います。ただ日本とは環境が違うので、ちょっと比べづらいですかね。日本は、アマチュアのころから良い選手が揃っている中で、競争して上り詰めてくる。それはやはり、レベルが上がって来ると思うんですよ。オーストラリアでは野球がマイナースポーツという環境で、これだけの成績を残してることを考えれば、ある程度のレベル、力はあるんだろうなと感じます。日本と同じ環境、同じ設備で、同じくらいのトレーニングをしたら、こちらの選手もまだまだ成長できますよ。

だから当然、こちらの選手もみな、常にチャンスが目の前にあると思ってプレーしています。どこかで誰かが見ている(編集部注:実際、ABLの首脳陣がMLBのスカウトを兼ねていたり、各国のスカウトが見に来たりしている)と、みんな信じて必死にプレーしています。僕のチームメイトの中にも、日本でプレーしたいと言っている選手がたくさんいますよ。僕自身もある意味、自分がスカウトみたいな目線で選手たちを観察している部分があります。「あ、この選手、日本でプレーできそうだな」という選手が、何人もいます。今の僕には、選手を球団につなぐ力はありませんが、でも、「君は日本の環境、日本の野球に合うと思うよ」と言うと、彼らは確実にモチベーションが上がるし、成績もついてくるんですよ。

――いいお兄さんですね。

そうですね、ある意味お兄さんって感じですね。いろんな選手が、僕に対してとても興味を持ってくれています。まず僕の練習方法も、こちらの選手とは違うんですよ。だからよく、「それはどういう意図でやっているの?」と聞かれます。僕は長いシーズンを通してコンスタントにプレーしたいので、体幹のトレーニングや体のケアに毎日、かなり長い時間をかけています。特にアメリカでは長いバス移動が大変でしたから、ケガ防止、故障に強くなるためのことは念入りにしていました。あとは「どういうバッティングをしているの?」とか「日本にはどういうピッチャーがいるの?」とかも、よく聞かれますね。

 

自分の成長を止めないために

――じゃあ結構、英語もしゃべれるようになりました?

野球の英語はまあ、全部分かりますが……。プライベートでの英語はやはりまだ、ちょっと時間がかかるかなあと思います(笑)。でも、ある程度しゃべって分からなくなったり間違ったりすれば、みんなも教えてくれますしね。海外に行って、言葉が分からなくても、しゃべる勇気が大事だなとつくづく感じました。

NPBから派遣された選手たちも、陽選手とよく話をしていた(写真中:宮國椋丞投手、右:入江大生投手=共にDeNA)

――それはみなさん、おっしゃいますね。

確かに通訳に頼ったら、ラクだし確実です。だけど、そうじゃなく、自分が一生懸命英語で何かを伝えようとしたら、相手も一生懸命聞いて、理解しようとしてくれる。そこで、彼らとの距離が縮まると思うんです。「あ、俺が一生懸命だから、向こうも一生懸命に応えてくれるんだな」と分かります。たとえば、バンディッツで四番を打っているT.J.(ベネット内野手)は遠征のとき同部屋で、ちょうど昨日もいろいろ日本の野球の話をしました。彼もやはり「日本でプレーをしてみたい、チャンスがあれば行ってみたい」と言って。日本の文化にもすごく興味を持っていました。

――それは、われわれ日本人にとってはうれしいですね。

ちなみに僕をオーストラリアに誘ってくれたのも、T.J.です。彼はカナダ人なんですけれども、アメリカでプレーしていて、オフは2015年から4シーズン、ブリスベンに来ていました。彼もコロナの影響で、しばらくこちらには来ていませんでしたが。

――いい縁に恵まれたんですね。

本当に、そう思います。それに、家族が僕のことを理解して、僕のわがままを聞いてくれていることにもとても感謝しています。嫁がずっと一人で子ども3人の面倒を見ているのはとても大変だと思うし、一方で自分がこうして海外に来ている間、子どもたちの成長を近くで見てあげられなかったのも寂しいし、悔しい。だけど、自分の人生の次のステージを考えると、野球を辞めてから何か考え、動き出すのではもう遅いと思いました。僕は野球を続けながら、そうした準備もしておきたかった。

――陽選手は台湾から、福岡第一高校に留学という形で来日して、日本でずっとキャリアを積み重ねてきた。すでに日本という外国で、一つのことを成し遂げているわけです。それだけでもどれだけの努力を要したのか想像もつかないほどだし、素晴らしいことなのに、さらに別の国でチャレンジを続ける。これはもう、尊敬に値します。

自分が高校から日本に来たときのことを思えば、また日本を離れて海外でゼロからスタートするのがどれだけ大変かは想像がつきました。でももう一回ゼロからスタートしたからこそ、自分でも成長できたなと思えるんですよ。改めて、「ああ、自分は2回目の成長をしているな」と感じています。

――私たちも陽選手を見習って、日々成長していきたいです。

そう言っていただけると、嬉しいですね。野球に限らず勉強だって、どんなに辛いことがあっても、今だけがすべてじゃないんですよ。ゴールはまだまだ先にあるんです。自分が進む道の途中では、いろんなことにぶち当たるだろうけれども、諦めるのも、その困難を乗り越えるのも、自分次第。いつもいいことばかりじゃないけれども、いいことばかり、ラクな道ばかりを求めようとすると、人の成長は止まってしまいます。常に自分と向き合って、大変なことにも正面からぶつかって乗り越えたら、必ず成長できると僕は思っています。

――ABLの22/23シーズンが終わって、また春はどこかで陽選手のプレーを見ることができますか?

どこかでプレーしていると思います。ただ、家族に相談しなくちゃいけないですけどね(笑)。そしてそのときには、また何段階か成長した陽岱鋼になっていたいと思います。

 

あわせて読みたい