“自分のやりたい野球”への回帰/中島彰吾(投手)
2014年、東京ヤクルトに育成ドラフト1位で指名され、入団。2年目の春、支配下登録を勝ち取った。しかし3年目のオフ、あまりに早い戦力外通告。その後の中島彰吾投手は台湾、オランダ、オーストラリア、アメリカと世界を渡り歩いている。そんな旅の中で感じた野球への思い、自身の変化を聞いた。
野球を通じて未知の世界へ
――2017年、東京ヤクルトを戦力外になったときは、どんな気持ちだったのでしょうか。同じように戦力外通告を受け、「不完全燃焼」と表現する選手も多いですが……。
「僕は結構、燃焼していましたよ。プロ野球ってそんなもんでだと思っていましたから、いつクビになってもという準備はしていました。そこで自分のレベルだとか、自分自身とか、いろんなものを見つめたときに、妥当な結果だったのかなとは思いましたね。3年経つと、プロ野球とはどんな世界かも分かってきましたので、まだNPBでやりたいという感覚はもうなかったです。次、何をしようかな、という感じでした」
――NPB以外で野球そのものがやりたい気持ちはあったのですか? あるいはなんらかのかたちで野球にかかわりたいとか。
「特別やりたいという感じじゃなかったんです。でも、本当にもう、ゼロになるわけじゃないですか、これまで野球しかしてこなかったから。それで、“これから何をしたらいいのかな”と思ったとき、周りから“一応トライアウトは受けておいたほうがいいんじゃないか”と言われて、“そうだな”と。ひとまず受けてみよう、と思いました」
――そこで、今回ABL行きを仲介してくださったBOA代表の色川冬馬さんと出会った。
「はい。こういう出会いって、なかなかないと思うんですよね。新しいことにチャレンジする、自分が行ったことのない場所に行く。もし自分が野球をやめて普通に働いていたら、仕事で海外に行く機会なんてないでしょう。自分の知らないことに、僕は非常に惹かれるんです。だから、今後行くはずもなかった海外に、野球を通じて行ける可能性があるというお話は、すごく魅力的でしたね」
――それで、アジアン・アイランダーズの一員として台湾のウインターリーグに参加し、オランダのデ・フラスコニンフ・ツインズからお声がかかったと。それまでオランダの野球、ヨーロッパの野球については、見聞きしたことがありましたか?
「世界大会などで、オランダ代表は強いですよね。ただオランダ国内のリーグに関しては全く知らず、スマホでちょっとどんな感じかなって調べた程度です。僕にとっては、野球で成功するためにオランダに行くことがすべてではなく、自分の全く知らない世界に行ける機会が野球だった。それに対して、ためらう必要がなかったということ。未知の世界で、生活するだけのお金をもらいながら野球ができる。人生経験ができ、野球までできるんですから、僕にとってはとにかく行かない理由がありませんでした」
すべてプラス思考でオーストラリア行きを決めた
――実際、オランダ野球のレベルは、中島さんが感じたところではどのぐらいだったのでしょうか。
「ピンキリなんですよ。上位のチーム=1位、2位のチームはレベルも高いですし、オランダ代表に入るような選手も、一番強いロッテルダムなんかにはいるんです。そういう選手はNPBのトッププレーヤーとも変わらないレベルがありますね。でも、下の5、6チームはたまにいい選手いるぐらいで、中には高校生レベルもいる。だから全体的なレベルでいうと、アマチュアから独立リーグくらいかと思います」
――オランダに行くとき、これがまた別の国で野球をするアピールになるかもという思いもあったのですか?
「ありましたね。海外で野球をやりたいなっていう。僕、トライアウトのとき、色川さん以外に複数のクラブチームや独立リーグとか、オファーも結構あったんです。でも、全部断りました。非常に失礼な言い方に聞こえるかもしれませんが、僕はNPBでなんとか一軍まで上がれたわけじゃないですか。そこからランクを落として、日本で野球をやることに対して、何か得るものがあるだろうかというと、NPBをクビになってアマチュアに行き、またNPBに戻ってこられる可能性はほぼないと思ったんです。年齢的にも考えてね。仮に1、2年野球を続けられたとしても、僕には意味がないというか、得るものがないと思いました。だから野球続けるなら、また海外がいいなと思い、オランダでプレーしながら探しました」
――ABLのシドニー・ブルーソックスからは、いつごろオファーが来たのでしょうか?
「オランダのシーズン途中、8月、9月には、もうオーストラリアの話が決まっていました」
――今度はオーストラリアABLで野球をすることに、どんな意味合いを感じましたか? オランダでシーズンを終え、休まず南半球のリーグにまた参加するという。
「まずプレーするにあたり、しっかりした条件を出してもらえました。プラス、野球のレベルが高い。それこそメジャークラスの選手も中にはいるし、日本のNPB選手も参加する。もし、そこで結果を残せれば、アメリカはじめ、また違う場所が見つかるかもしれないですよね。オーストラリアなら英語の勉強もできるし、ヨーロッパとは違った文化を持つ人たちと出会って、また新しい価値観を見いだせるかもしれない。すべてプラス思考というか、すべてにおいて自分に得るものが大きいと思い、即決しました」
――日本を出た時点の中島投手と、オランダ生活を終えた時点の中島投手、どこを一番パワーアップしてオーストラリアに乗り込めたと思いますか?
「対応力とか人間性とかですかね。あと、プレースタイルの点でも、やはり日本人選手と海外の選手ではバッターのタイプが違うので、駆け引きや使う球種は日本で投げていたときとは変わりました。もちろん個人差はありますが、ストレートを待っているバッターが多いとか、落ちる球に弱い選手が多いとか、そういったことから日本にいたころはストレート中心だったのを、変化球中心に変えて対応しました」
価値観の変化は野球以上の大きな経験
――人間性の部分では?
「自分自身、成長できたと感じています。自分のキャパ――人としての容量が増えました。日本人の文化、日本人の育ち方をしていると、ちょっと凝り固まった、固い感じの考えになると思うんです。海外の人とか、海外のチームは、チーム性が全く違います。日本は監督、コーチがいて、またその上がいて、と。言うなれば会社みたいなものですよ、上下関係や人間関係に左右される部分がある。向こうはそういうことに関係なく、コーチも監督もみんなフラットで、選手は自分の言いたい意見はどんどん言うし、こうしたいんだという自分のスタイルを持って、各々野球をやっていますから」
――日本とは全く違う野球、文化を知ったわけですね。
「はい、そこはオランダでもオーストラリアでも同じです。いちいち人の目を気にせず、自分のことに集中して野球ができる。喜ぶときは喜ぶし、悔しいときは悔しいと、感情を思い切り表に出すから、野球をしていても本当に楽しいんですよね。メジャーを観ていてもそうでしょう。みんなでふざけるときはふざける、集中するときは集中する。だけど日本だと、どこにいても、ある程度人から見られているような、かしこまった感じで、おふざけは許されない。窮屈なところから開放されて、自分のやりたいスタイルで楽しくできました」
――野球以外の面での学びや発見は?
「お金の感覚ですね。海外にいたときは、ルームシェアしているチームメイトとたまにご飯を食べに行く程度で、ご飯以外にお金を使うことがなかった。それで全然、僕にとってはむしろ日本にいるときよりも幸せというか、楽しく感じていたので。お金ってそんなに必要ないんだっていう感覚でしたね。買い物するより、街を歩くだけでも楽しかった。新たな自分を発見しました」
――そういう幸せを感じられたというか、そういう価値を見いだしただけでも、またひとつ、いい経験ですよね。
「本当、そうですね。価値観の変化は野球以上に大きな経験でした」
――シドニーのチームメイトたちからも、何か刺激を受けました?
「メジャー、日本、韓国などでのプロ契約を目指している選手がほとんどで、やはりオランダより全体のレベルが高い。その中で、僕も結を出したいと思いました。プロとして契約してお金をもらっている分の仕事はちゃんとしなければというプロ意識も当然あります。そういう意味でも自分の結果や数字に対し、しっかりフォーカスを置いてプレーできました」
“全力の趣味”ともいえる楽しい野球ができた
――ABLではすぐ順応して、自分のピッチングができましたか?
「最初は球が滑るなど、ちょっと苦労しました。でも後半は慣れて、そこそこ自分なりのピッチングはできたと思います」
――日本人以外のキャッチャーで、違うところを引き出してくれたとか、新しい発見や学びはありましたか?
「結構アバウトですよね、海外の野球は。キャッチャーも日本みたいに細かく、ストライクゾーンの四隅を突いてというよりも、ストレートだったら、ストレートで押していく。アバウトな感じですが、結構それも通用するんですよね。そもそも試合前にミーティングをするとか、そういう細かい野球をしないから」
――そういう意味では、中島投手が投げたい球を投げられた?
「投げられましたね。1回が終わって、イニングの合間にちょっとキャッチャーと話をして、“今日はストレートがいいから、ストレート多めにいこうか”とか。もともと僕は自分の投げたい球を投げたいタイプなんですけど、それを思い切ってやれました。NPBにいたときは、キャッチャーのサインに首を振ってはいけないという風潮が、特に若手だと若干あったんです。それで首を振って打たれたとき、“なんでお前、首振ったんや”って感じでね。でも、それは結果論の世界だし、僕は思い切って自分の長所を活かし、自分のやりたい野球をやって、それでダメだったら仕方がないと思いたい。そこで責任を取るのは、結局自分なんですよ。使う、使わないを決めるのは監督さんとかだし。だから、自分がマウンドに上った以上は、自分のやりたい野球で結果を残したい。オーストラリアは、それに対して“うん、いいんじゃね”“お前のやりたいようにやれ”という感じだったので、楽しかったです」
――中島投手のやりたい野球とは、どんな野球だったんですか?
「言葉の通り、自分のやりたいことをやる野球ですね。精神的なところもあるんですが、何かに追われてとか監督、コーチの目に追われてとかじゃなくて、海外に行って自分でやっている野球は、自ら選んだもの。自分の野球人生を振り返ると、いつからか“楽しい野球”から“やらされる野球”に変わっていく瞬間があったんですよね。結構みんな、そうだと思うんです。それこそ、高校野球に足を踏み入れたときとかね。でも僕はNPBをクビになったとき、やらされる野球というか、“やらなくてはいけないって思っていた野球”が、終わったわけなんです。海外に行ってからの野球は、本当に自分がやりたいことをやっているから、精神的にも“打たれた・打たれなかった”というところは、そんなに気にしない。日本だったら、打たれたらもう落ち込んじゃうんですけど、海外だったら、打たれても“うわあ、今の球打たれたか”みたいな。本当に、草野球じゃないですけど一球一球、一打を楽しんでいられるという意味での違いですよね。プレー自体はいつ、どこにいても全力でやってるんですが、心の持ち方がやはり違うんです。楽しい、楽しめる。ちょっと(説明するのが)難しいんですけど(笑)」
――海外での野球も、仕事ではあるんだけど……。でもなんか違うんですね。
「そうなんです。言ってしまえば、趣味って考えればいいんじゃないですか。全力の趣味、みたいな(笑)」
――もちろんその中には、野球選手としてのプライドというか、やっぱり打たれたくないという思いは強くあるわけですよね?
「それはありますね。勝負して、抑えたいっていう。そこはもちろん全力でやりますけど」
――楽しい野球ではあるけれど……。
「そこを、全力でやるからこそ楽しいじゃないですか。だからその結果は、いちいち細かく気にしない。日本にいたときは、本当に気にしてました。“打たれたから、明日使ってもらえんかな”とか。そういうのじゃなくて、自分が一瞬一瞬を全力でやって、あとはどうなろうが関係ない、ぐらいな。いちいち結果も気にしないし、ただ自分がやれることを一生懸命やっていることに、とても楽しさを覚えたという感じですよね」
自分自身も楽しく、人の役にも立てれば嬉しい
――オーストラリアのあとは、アメリカにチャレンジしましたね。
「そこに何があるかはわかんなかったけど、行けば楽しいことが待っているだろうなと思いました」
――すごいですね、それ。考えられるの。
「正直言って、お金を稼ぎたいんだったら、日本でどこか会社に就職して働いたほうが、今なんかより給料はもらえますよ。でも、自分にとっての人生の楽しさはそこじゃないと思いました。そのときにしかできないことだとか、自分にしかできない何かに挑戦することに意味があると思って。僕は守りたい家族がいるわけでもないし、自分の子どもがいるわけでもない。だから、自分が今できる全力で、挑戦できることをやるのが、人生で最良のことだと思うんです」
――それがどういう結果であれ、自分で精いっぱいやったら納得できる。
「そうですね。そこでまた、新しい結果が見えればラッキーですし」
――でも、そのほうがいい結果が出るような気がします。
「はい、人生楽しむのがモットーなので(笑)」
――次はどこに行っちゃうんだろう、中島さん(笑)。
「(笑)。誰もやっていない道をたどっていくのは楽しいじゃないですか。今後も時代が進むとどんどんグローバルな社会になっていくと思うんですよね。スポーツに関しても、海外に行きたい選手がますます増えていくかもしれない。そのとき僕がパイオニアじゃないですけど、NPBを経験して、そこからあそこの国行って、どこの国行ってという、こうやっていろんな挑戦をした選手がいるんだという前例になれればね。あとに続く人の中から一人ぐらいは“俺にもできそう”と思ってくれるはず。だから、そういう道を作れれば、僕がこうして野球をやってきた意味が絶対出てくる。それでいいのかな、と思います。僕は自分が目立ちたいとか有名になってとか野望はなくて、自分自身が楽しければいいので、そうやって誰かの役に立てれば十分ですよ」
【本記事掲載に関するお詫び】 今回の中島投手へのインタビューにつきましては、インタビューから掲載までにかなりのお時間をいただいてしまいました。中島投手及び、関係者の皆さまに心よりお詫び申し上げます。