☆迫勇飛投手(キャンベラ)インタビュー☆社会人野球で全く活躍していなかった自分でも海外でできるんだ、と世界が広がった

ⒸSMP Images/ABL Media

「野球を通してでも、そうでなくても、いつか海外に行ってみたい」――そんな夢を抱きながら社会人野球でプレーしていた青年が、ひょんなことからオーストラリアABLに新たな居場所を見つけ、プロフェッショナルの一員としてチームの勝利に貢献した。そこで改めて感じた自分の武器、そして気持ちの変化は? 23年シーズン、再び見知らぬ海外へと羽ばたく迫投手に、話を聞いた。

 

肩が速く作れる強みを生かせた

――キャンベラ・キャバルリーに入団した経緯から教えてください。

以前から海外への憧れがあって、知人に「海外で野球をしてみたい」という話をしたことがあったんです。その知人が濱矢廣大さん(元東北楽天ほか=投手)と知り合いで、濱矢さんにそのことを話してくれました。それから濱矢さん経由で「オーストラリア野球の話があるけれども、挑戦してみますか?」と話をいただいて、「ぜひ挑戦してみたいです」とお願いしました。

――そのお話があったとき、「キャンベラ」というチームは既に決まっていたのでしょうか。

おそらくそうだと思います。というのも僕、実のところ細かい話はノータッチで、すべてお任せしてしまったので……(笑)。確か去年の11月半ばごろに渡豪が決まって、そこからパスポートはじめ準備をバタバタとして、日本を出発しました。

――それまで所属していた社会人野球のカナフレックス(滋賀県東近江市)に籍を置いたまま、渡豪したのですか

はい。硬式野球部の監督、コーチにまず相談し、最後はカナフレックスの社長に直接お会いしてお話しました。快く「行っておいで」「頑張ってこい」と言って、背中を押していただいたことに、感謝しています。

――それはよかったですね。キャンベラにラウンド6まで横浜DeNAの2投手が派遣されていることは知っていましたか?

DeNAのお2人がいらっしゃることは聞いていました。だから僕がチームに合流したとき、お2人と一緒に野球ができればすごく勉強になるなと思っていたんです。そうしたら、僕と入れ違いだと後で知りまして……。

――NPBの選手のあとにご自分が入るということは、何か意識はしましたか?

お2人はNPBというレベルの高い場所で、しかも普段から一軍で投げていらっしゃる方々なので、お2人の結果も含めて「同じ日本人選手として、日本人の株を下げないようにしなければいけないな」とは思いました。どんな形でも、なんとか抑えて結果を残したい、と。

――キャンベラでの滞在場所は、最初からホームステイと決まっていたのですか?

これも僕は最初、何も分からないまま向こうに行ってしまいました(笑)。キャンベラに到着して、すぐクラブハウスに移動。ずっと英語でいろいろ説明していただいていたのに、僕には全く通じていなかった(苦笑)。そこにホストファミリーのジョシュさんが来てくれて、僕は最初チームの関係者だと思ったので、“Nice to meet you.(はじめまして)”とあいさつしたんです。そうしたら、まさかの返答が「こんにちは」。「ああ、日本語が話せるんですね」「僕はホストファミリーのジョシュです」といった会話をして、初めてジョシュさんの家にお世話になるんだなと分かりました。

――ジョシュさんはかなり日本語が話せるんですね。

日本人なんじゃないかと思うくらい、流暢です。「日本人がキャンベラに来て、何かあれば手助けしますよ」と常々、チームに話していたそうです。そこへたまたま僕が入団したので、とてもいいタイミングでした。

――ホームステイ先では、何か家のお手伝いをしていたのですか?

もう本当に何から何まで、ジョシュさんにお世話になりました。僕はせいぜい洗濯物を干したり、卵を焼いたり、犬2匹の散歩に行ったり、そのくらいでした。

――ABLのシーズン中は、日々どんな生活を送っていましたか?

週末に試合があるので、基本的に月曜が休みでした。火曜日は「イージー・トレーニング」といって、夕方4時から5時くらいまで、軽く体を動かします。水曜のトレーニングも4時から6時、7時まで。投手陣はキャッチボールかピッチングで、各自に任されていました。キャンベラはかなり自由なチームで、練習開始のミーティングに参加したあとは、それぞれがしたい練習をするスタイル。終わり時間は特に指定されていませんでした。

――そのなかで、迫投手なりにどんな調整の仕方をしていましたか?

僕は普段から、結構長く睡眠をとるのが好きなタイプで……ですから火曜、水曜の午前中は、だいたい寝ていました(笑)。起きたら犬の散歩をして、帰宅後に食事をし、家のガレージにあるトレーニング器具を使ってトレーニング。それから球場に行って投げていました。ただ、シーズン中は本当にずっと眠くて……(笑)。「ジョシュ、僕はなんでこんなに眠たいんだろう?」と聞いたら、ジョシュも日本にいたときはずっと眠かった、と。「頭が英語と日本語を変換しようと一生懸命頑張っているから、疲れて眠くなるんだよ」と本当かどうか分からないけれどもフォローしてくれたので、その言葉に甘えて結構寝ていました(笑)。

――(笑)。「ブルペン」という役割も、最初から決まっていたのでしょうか。

いえ、自分が先発なのかリリーフなのか、クローザーなのかは、全く分かっていませんでした。ブルペンにいて、とりあえず名前を呼ばれるまでみんなと一緒に試合を見たり、しゃべったりしていました。最初の登板も、いきなり“Hey,Yuhi!” “next,next(次、次)”と言われて出ていった感じです。普段はスマホの翻訳機能を使って会話していたんですが、ベンチにスマホを持って入れなかったので、試合が始まると全く言葉が分からない(苦笑)。だから初登板(22年12月30日、メルボルン戦)のときも、もしかしたらあらかじめ「今日は何回から登板ね」と言われていたのかもしれないんですよ。でも自分的には、「あ、次? はい、分かりました」という感じで登板した形が多かったです。

キャンベラのクラブハウス前で、ホストファミリー(左端がジョシュさん)と記念撮影(写真=迫投手提供)

――そのへんは気持ちなのか、肩なのか、速く作れるようになりましたか?

もともと、肩はかなり速く作れるタイプだったんです。いつもキャッチボールも投球練習も短くて、そこは日本にいたときから自分の得意部分だと意識していました。イニング間にマウンドに上がって5、6球投げられるところでも、僕は3球で終わっていました。

――ではもう、気持ちの問題だけだったわけですね。

そうですね。登板前にサプリメントを飲むタイミングが難しかったくらいでしょうか。僕は登板30分前と直前の2回、サプリメントを飲んでマウンドに上がるルーティンがあるんです。いつ行くか分からないので、30分前のほうのルーティンが崩れ、直前に飲むサプリだけ継続していました。それでもマウンドに上がったときはいい緊張感があって、必要以上に緊張することがなかったのはよかったと思います。

 

日本とはセオリーが違ったABL野球

――実際対戦してみて、ABLのバッターにはどんな印象を受けましたか?

6試合10イニング投げた限りでの印象ですが、バッターにヒットを打たれる、ホームランと打たれる状況に関して、日本の野球とは何か全く違うスポーツのように感じました。「セオリーが違う」というか……。日本では「困ったらアウトロー」といわれるくらい、アウトコースをメインに配球を組み立てていきますが、ABLではインハイを主体に配球を作っていきます。もちろんアウトコースも使いますが、インハイの真っすぐを要求されることが結構多いので、「野球のセオリーが日本とは違うな」と思いました。日本的な攻め方でアウトロー、アウトローと行ってもバットに当てられるし、ホームランにされてしまう恐れもあるなと投げていて感じましたね。

――インハイに投げるのは、勇気が要りそうですね。

英語はうまく通じなくても、キャッチャーがそれまでの過程を踏まえてしっかり組み立てを考え、根拠をもって「ここに投げてこい」と要求しているのが、ジェスチャーなどから伝わってくるんです。ベンチに帰ってからも一生懸命コミュニケーションをとってくれるので、「この人を信じて、要求したコースに思いきり投げよう」と思っていました。だから、怖さはなかったです。

――うまくコントロールできましたか?

初戦は緊張して2者連続フォアボールから始まったのですが、その次のバッターから徐々にマウンドの固さやボールの感覚をつかんで、1球1球、1試合1試合、コントロールできるようになっていったと思います。ABLのボールは握っただけでは分からない、投げてみないと分からないような、滑る感覚があったので。中盤ごろからは、インハイを要求されてもある程度そこに投げられる、体のコントロールもできてきたなと感じながら投げていました。

ただ、パース戦(23年1月15日)で2者連続ホームランを打たれたのは……(苦笑)。右バッターに対して、インコース高めをキャッチャーに要求されたんです。それで、バッターの首やや下あたりの高さで、少し真ん中寄りのところに投げました。日本人相手だったら、絶対セカンドフライか空振りというコースだったんですが、打球はライトに飛んで行った。「あ、ライトフライかな」と思っていたら、グングン伸びてスタンドに入ってしまいました。「こんなところをホームランって、見たことないぞ。っていうか、打たれたこともないな」と思いました。次打者には初球の遅いカーブをまたパーンっとスタンドに放り込まれて、「とんでもないな」と思いましたね。

――グラウンドでの一番の思い出はなんですか?

先ほども触れた、初登板のメルボルン戦です。自分のABLデビュー戦(7回から2番手として登板、1.2イニングを投げ被安打1、与四死球2、奪三振3)でチームが勝ったことがとても嬉しかったし、印象深いです。試合が終わってチームメイトとハイタッチをし、いい感じの音楽がボリュームたっぷりに流れるなか、花火が上がるのをベンチでみんなと一緒に見ていて、なんだか感動したのを覚えています。

――チームの一員になった実感があったんでしょうね。最後の登板となったシドニー戦(23年1月20日=7回から2番手として登板、2イニングを投げ被安打0、奪三振4)で、勝ち投手(1勝目)の記録が付いたのもよかったですね。

そうですね。1対6で負けていたところから、(7回表に3点、9回表に4点を入れて)追いつき、逆転してくれて試合に勝てたのが嬉しかったです。自分が勝利投手とは考えてもいなかったので、1勝目が付いて「やったー!!」というより、ただただチームが勝った、そこでたまたま僕が勝利投手になれた、という感覚でした。

――今振り返って、「オーストラリアに行ってよかったな」と思えるのは、野球以外も含めるとどんなことですか?

キャンベラの球団も含めて、オーストラリアに行って出会った人たちが、本当にいい人ばかりだったんです。器が大きいというか、日本人とはまた違った優しさに溢れていて、僕はその優しさに思いきり甘えさせていただいたわけですが、ずいぶん助けられました。そのなかで、自分も人間として成長できたのではないかと思います。オーストラリアで1カ月ちょっと過ごして、海外でもっと野球をしてみたくなりました。これまでは日本で頑張ることしか考えていなかったので、そこは大きく変わりました。

――今後については、どんな夢を描いていますか?

ABLのシーズンが終わって2週間ほど、キャンベラに残ってこれからの野球人生や、自分がどういう人間になりたいかをゆっくり考える時間がありました。NPBだけにとらわれず、「MLBを目指してみたいな」とか「メキシコに行ってみたいな」とか、今は夢が広がっています。

――今回ABLでいろいろな経験を重ね、防御率1.80の成績を残して、「どこに行ってもなんとかなるだろう」みたいな自信もついたのでは?

自信と過信の微妙なところだとは思うんですが……(笑)。日本の社会人野球でも全く活躍していなかった僕でも、チームのためになるようなピッチングが、海外でもなんとかできるんだなとは思いましたね。

――初めての海外野球経験としては、合格点ですね。

日本とはいろいろ違う新しい環境で英語も話せないなか、自分なりにはよく頑張ったかな、と思います(笑)。

 

【追記】
このインタビューのあと、迫投手はカナフレックスコーポレーションを退社し、米国フロンティア・リーグのニュージャージー・ジャッカルズと23年シーズンの契約を結びました。

 

Profile
さこ・ゆうひ●1999年生まれ。180cm82kg。右投右打。東洋大姫路高から履正社医療スポーツ専門学校を経て、カナフレックスコーポレーション株式会社に入社、硬式野球部に所属。2年目の22年、社会人野球日本選手権近畿地区予選の敗者復活トーナメント代表決定戦では156球完投の力投で、チームを本大会に導いた。ABL22/23シーズンは、キャンベラで6試合(10イニング)に登板し1勝0敗、被安打8、失点2、与四死球3、奪三振15、防御率1.80の成績を残した。

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