内藤航世投手(キャンベラ)インタビュー☆「一歩を踏み出す行動力で、こんな素晴らしい経験が得られるんだな」と強く感じた
社会人野球・伏木海陸運送時代のニックネームは、同じ「内藤」姓の大先輩(内藤尚行投手=元ヤクルトほか)にちなみ、「ギャオス」。闘志あふれるピッチングで、チームを全国大会へ導いた。昨年末に会社を辞め、退路を断って渡豪。自ら選んだオーストラリア・ABLで得たもの、そしてこれからの野球人生について聞いた。
「海外野球への好奇心」から始まった
――まずはABLキャンベラに加入する前の話から、聞かせてください。アマチュア時代、内藤投手のターニングポイントとなったのは、どの時期ですか?
一番は社会人(伏木海陸運送)時代だと思います。僕は中学、(育英)高校ともずっと補欠で、高校最後の夏もベンチに入れず、高校までで野球を辞めようかとも思いました。でも(びわこ成蹊スポーツ)大学2年生のとき、元NPB(福岡ダイエー)の山田秋親投手コーチと出会い、NPBを目指そうと考えるようになったんです。「それには、ストレートの球速が必要」ということで、山田さんとトレーナーさんと3人でトレーニング内容を話し合って実践。卒業までに球速が10kmほどアップし、MAX147kmを計測しました。
――それはトレーニングの効果が出ましたね。そこから社会人で、さらにステップアップできたということでしょうか。
大学卒業後の進路として社会人野球のチームを希望し、お声掛けいただいた富山の伏木海陸運送に入社しました。社会人時代にどうしても「150kmの壁」を破りたかったため、チームのトレーナーさんに相談して、そこに特化したトレーニングを続けました。ところが社会人1年目の都市対抗でMAX145km程度しか出せず、2年目の都市対抗でも144km。なかなか自分の思うようにいかず、いよいよ野球を辞めようかと悩みました。でも、もう1年だけ自分の可能性を信じてみようと思って、迎えた3年目。球速は149kmまで出たのですが、社会人野球のシンボルである都市対抗にも日本選手権にも出場できませんでした。そこで、4年目に賭けることを決意しました。その4年目(2023年)、最後の試合となった(日本選手権1回戦、対パナソニック)京セラドームで、ついに151kmを出すことができたんです。
――内藤投手自身何か変わった、あるいは掴んだものがあったのですか?
下半身が前を向いたとき、上半身はまだ回り切っていない状態で、体をムチのように使う捻転差のトレーニングをひたすら行なった成果が出たのではないかと思います。加えて体のバランスを意識していった結果、最後の試合の初回に150km超が出て、自分の目標を達成できました。ただ、試合は(0対4で)負けてしまったのですが……。
――先発して5回まで被安打1、奪三振8で無失点に抑えながら、6回に4失点し、敗戦投手になってしまいましたね。
選手権が始まる1カ月ほど前まで、自分はずっと中継ぎだったんです。エースピッチャーが調子を崩し、監督に「先発に回ってくれ」と言われてからはビックリするくらい、いい感じで調整ができていました。実際、試合でも初回に150km超が出たり、想像以上に三振が取れたり。ドームの力を借りて、自分が思い描いてもいなかったピッチングができたと思います。でも結局6回に、粘り切れない自分の弱さが出てしまった。まだまだ課題が残りました。
――日本選手権が終わってすぐ、ABLキャンベラ入団を発表しましたね。どんな経緯があったのですか?
もともとアメリカでプレーしたいという思いがあったんです。メジャーリーグを初めとして日本人選手が数多く活躍している中、例えば今回同じチームになった濱矢(廣大)さんなど、世界中を回ってプレーされている。迫(勇飛)君も昨季キャンベラで投げ、そこからアメリカ行きの切符をつかみ取っています。日本だけでなく、野球のできる場は世界中にあるんだなという好奇心からのスタートでした。迫君が(社会人野球の)カナフレックスに在籍していたとき、ちょうど僕と仲の良かった大学の後輩もカナフレックスにいたので、まず迫君を紹介してもらいました。それでABLの話をいろいろ聞いて、自分も挑戦してみたいと思い、迫君が「じゃあ監督かマネジャーに連絡してみます」とチームに話をしてくれたのが最初です。会社にはすでに夏前、毎年行われる個人面談の際に「今季限りで退社して、海外野球に挑戦したい」とお話しさせていただいていました。
――キャンベラにはピッチングの動画を送ったのですか?
社会人1、2年目の都市対抗と、4年目の日本選手権の動画も送りました。そのときキャンベラに、年内は日本の社会人野球でやり切るつもりだという話をしたところ、「12月の後半からでも大丈夫だよ」と言っていただけたのはありがたかったです。
「フォークがいいから、どんどん使っていこう」
――そして渡豪がクリスマス当日。あの日、シドニーは荒天で飛行機が遅延して大変だったそうですね。
まず成田からシドニーに向かう国際線が、2時間ほど遅れて出発しました。次にシドニーで、キャンベラ行きの国内線が一度離陸したんですが、雷雨がひどくてシドニーにUターン。そこで3時間ほどロスしたと思います。
――シドニーで一人、不安だったでしょう?
めちゃくちゃ不安でした(笑)。日本人が全くいなかったので、自分の分かる単語を全力で捻り出し、あとは翻訳機も使いながら周りの人に状況を聞きまくりました。関空から成田、シドニー経由で24時間かけて、やっとキャンベラにたどり着きました。
――しょっぱなにそんな経験をしてしまうと、「もう何が起こっても大丈夫」というか、ある意味自信が付いたのでは?
それはだいぶ、ありますね(笑)。「もうこれ以上しんどいことはないだろうな」と思いました。
――12月末の第7ラウンドから、ロースター入り。中継ぎで計8試合に登板しました。ABLのバッターやチームについて、どんな印象を持ちましたか?
選手権が終わってからキャンベラに来るまで1カ月半ほど、(会社のある)富山で調整してきました。でも富山はとても気温が低かったし、その間バッターに投げることもできなかったので、初戦(12月29日)にパースと対戦したときはかなり緊張しましたね。久しぶりにバッターに対して投げ、「大丈夫かな」という不安から入ったのはよく覚えています。
――その感覚がなくなったのは、何試合目くらいからでしたか?
その試合で、いきなりレフト前に2連打を浴びたんです。「ちょっとまずいな」と思いましたが、もともとランナーを背負ってからのピッチングには自信があったので、そこで(三番・ボジャルスキー選手から)三振を取れたとき、これで大丈夫だと思いました。
――それは早かったですね。
パースも強いチームでしたが、やはり一番強いと感じたのは、先日ファイナルで優勝を決めたアデレードでした。アデレードのバッターには、(バットの)芯を外しても外野まで持っていかれましたね。社会人のバッターは打席の一番前に立って、ストレート、曲がる系、落ちる系……結構どんな球にも対応する能力がある。だから社会人野球のバッターに対しては、2ストライクまで追い込んでからフォークボールで三振を奪いに行くなど、低めに球を集めていました。でもABLのバッターは、追い込まれる前にこちらがカウントを取りに行った球を、一発で仕留めにきます。バットの先っぽに当てた打球もホームランにするので、力の部分は違うなと感じました。
――そうしたABLのバッターに対応するために、内藤投手自身のピッチングや配球を変えたところはあったのでしょうか。
速球系のストレート、カットボールで空振りやファウルを取ってカウントを整え、追い込んでからは自分の武器であるフォークボールを投げ続けました。実際、ABLのバッターはフォークボールへの対応力がそこまでない印象でしたし、キャンベラの投手コーチのポール(・フレッチャー)さんも、キャッチャーのロビー(・パーキンス)さんも、「フォークがいいから、どんどん使っていこう」と評価してくれました。
――海外野球の先輩でもある濱矢投手や、他のチームメイトから話を聞いて勉強になったとか、「こういう考え方もあるんだ」と思ったことなどはありましたか?
キャンベラでご一緒した濱矢(廣大)さんは元NPBの選手なので、お会いする前は何か壁のようなものがあるんじゃないかと勝手に想像していたんです。でもいい意味で元プロ野球選手感がないというか、日本人の中での最年長選手として、あとから合流した僕にも溶け込みやすい環境を作ってくださいました。ABLの野球についても、バッターのレベルや特徴について、いろいろ教わりました。「日本だったら追い込んでから低めにボールを集めて三振を取る配球が中心だけれども、海外では逆に高めを使って、高めで三振を取る形のほうが多いよ」といった話とか。「外国人バッターはローボールヒッターが多いから、最後に高めでフライアウトを取るのも投球術の一つだよ」と教えていただきましたね。
――高めに投げるのは、結構勇気が要りそうですね。
特にインコースの高めに投げるのは、緊張しますよね。でも実際、高めで三振もフライアウトも取ることができたので、濱矢さんにアドバイスをいただいておいてよかったなとマウンドでしみじみ思いました。
ストレートの球速アップを図り、上を目指す
――キャンベラでは、迫投手と同じお宅にホームステイしていたそうですね。
同じ家の、同じ部屋でした。食事は基本的に、ホストのジョシュさんが作ってくれました。ジョシュさんは日本に住んでいたことがあるので、お米を炊いて、あとは肉料理など僕らの口に合うよう工夫してくれたため助かりました。ジョシュさんがいないときは勇飛と2人で買い物に行って、自分たちで食事を作りました。2人とも社会人時代に一人暮らしだったので、そこはかつての経験が役に立ちましたね。
――韓国人投手たちとも仲良くしていましたよね。
ユ・スンチョル君という同い年のピッチャーが僕のフォークボールをとても評価してくれて、「教えて」と言われました。2人でキャッチボールをしながらフォークを教えて、一緒に練習したんですよ。その後、アデレード戦でユ君がフォークで三振を取って、ベンチに帰って喜んでいたときは、とても嬉しかったです。韓国人選手たちとはいつも遠征先でも同じテーブルでご飯を食べて、楽しく過ごしました。
――野球だけに限らず、オーストラリアに来たからこそ内藤投手が変わることができた、あるいは勉強できたことはありますか?
小さいころから、自分はあまり行動力がありませんでした。でも今回オーストラリアに来たことで、オーストラリア人はもちろん様々な国から来た選手たちと交流することができ、「一歩を踏み出す行動力で、こんな素晴らしい経験が得られるんだな」と強く感じました。行動することの大切さを改めて知ることができましたね。
――第一歩が、グンと大きな一歩になりましたね。
かなり大きな一歩ですね。ただ、勇飛なんかは昨季、たった一人でキャンベラに来たわけで……。それを考えると、僕とは違うなと思います。自分は東妻(純平=横浜DeNA)君も含め日本人が4人だったので、とても心強かった。もし日本人が自分一人だったら、どうなっていただろうと思います。
――これからの野球については、どう考えていますか?
アメリカのフロンティア・リーグ(独立リーグ)入りが決まりました。キャンベラのチームメイトが一人、5月からフロンティア・リーグに行くと聞いて、「自分も来季、フロンティア・リーグで勝負したいんだけど」とアポを取ってくれるよう、頼んでみたんです。そこでセントルイス・ゲートウェイ・グリズリーズというチームと話をし、入団が決まりました。
――そうしたことが自分で次々できるようになったのも、大きいですね。この先は日本ではなく、海外でチャレンジしたい?
ここまで来たわけですから、海外でできるだけ上のステップに進めるよう、チャレンジしたいです。
――そのためには、何が必要だと思いますか?
どのリーグでプレーするにせよ、ストレートの球速アップは絶対に必要です。スピードをもう一段階上げないと簡単に弾き返されてしまうので、そこはもう少し突き詰めていきます。トレーニングをしながら、自分のフィジカルが問題なのか、技術的な部分が未熟なのか、もう一度見直して調整していきたいと思います。
Profile ないとう・こうせい●1998年1月5日生まれ、兵庫県出身。187cm87kg。右投右打。育英高―びわこ成蹊スポーツ大―伏木海陸運送―キャンベラ・キャバルリー。伏木海陸運送1年目に都市対抗野球大会1回戦、対パナソニック戦にリリーフで登板し、3.2回を無失点。4年目の日本選手権大会1回戦では同じパナソニック相手に先発マウンドを任され、5回までに8三振を奪う好投も、6回4失点で敗れた。ABL23/24の成績は8試合(10.2イニング)に登板、0勝1敗、奪三振12、防御率3.38。